6:30に家を出て、京都8時、JR亀岡駅8:45着。
スゴイ霧の中、50m先も見えない。見えるはずの牛松山も霧の中。すぐ暖かくなるけど、ヤッケを着て出発。亀岡は京都サンガのサッカー場建設中。
南天の一粒一粒眩めひて
保津峡下りもお休みのせいか、シーンとしている。民家の南天やセンリョウの赤い実、蝋梅の黄色い花を楽しみながら通り抜けて、酒屋の裏側が登山道入口。
ときは今、天が導く明智越え
明智越え(抜粋)
保津より嵯峨へ越える峰の道を明智越という。この道は保津町の東方山麓要害の地を占めて南北朝時代に頭をもたげる保津城の搦手(からめて)を登り口として緩やかな坂道を登りきると、山道の最高峰、峯の堂に達する。それより、見晴らしのよい平坦な尾根伝いの道を行くと鐘撞堂跡、更に下り尾根道の土用水の霊泉をすぎ、水尾から嵯峨鳥居本に達する。この間およそ八キロメートル。
明智光秀公、天正十年(1582)五月十七日、安土城を去って水城坂本城に帰り、同二十六日秀吉を救援すべく中国遠征の軍を整えるため、公が智謀を傾けて築城した亀山城に入った。同二十七日愛宕山将軍地蔵に願をかけ、太郎坊の鬮(くじ)を占って運を定め、二十八日西坊に於いて連歌の師匠絶巴と連歌をよみ神前に納めた。光秀公の発句に「ときは今、天が下知る五月哉」は、公の心境を物語るものとしてあまねく後世に語り継がれている。
亀山に帰った光秀公は六月一日午後十時一万五千騎の軍を三段に備えて、北より明智越(神越)、唐櫃(からと)越、老ノ坂越の三面より本能寺に向かったのである。
9:20 順調にドンドン進む。が、あれれ?こんな荒れた道では無いはず。ちょっとおかしいので、元に戻ってみるが、まだおかしい、もひとつ元に戻る。
9:50 あーあー(・。・)! 新年早々、勘違い!徒労をしてしまった。
ホントの道に戻ると、明智越ハイクの団体さんに出会う。杉林の向こうから太陽が輝きだした。歓声が起こる。みんな、シャッターチャンス!
「保津百景道しるべ」の案内看板が次々あり、明智越えとはいうものの、光秀の謂れ以前からかなりの歴史がある。この歴史ある明智越をずっと行きたい気分になる。このまま明智越を水尾まで行き、愛宕山へのルートに変更しよう。今日はずっと晴れ!
♪天城越え〜♪ならぬ、明智越ぉえ〜♪
限りなく透き通りゆく広き空冬の太陽ギラリと尖る
ポカポカ陽気になってきた。青空が広がり気持ちいい。
「保津観音の伝説」「帯解け石」「石堂古墳」「峯の堂」「鐘撞堂跡」と続いていく。
峯の堂(むねんどう)(抜粋)
保津より嵯峨へ越える明智越の眺望絶佳なる山の頂にこんもりと茂る老木にかこまれた塚状の円丘を「峯の堂」と呼ぶ。
ここに五十六代清和天皇を祀る。
戦国末期の頃、叡山の僧兵は信長には従わなかったが、愛宕山はこれに反して明智光秀公の庇護のもとに多くの寺坊は焼討ちよりまぬがれた。
明智越は嵯峨に達する道であると同時にまた愛宕山に参拝する聖なる道ともなっていた。光秀公は亀山城ならびにその城下町を整備すると同時に、この道をも騎馬武者や庶民がたやすく通行できるように整備したものと考えられる。公は天正十年(1582)五月二十七日愛宕山参籠の帰り道にも、この清和天皇をお祀りした峯の堂に本能寺攻め必勝の祈願をこめられたといわれる。
六月二日その加護によって本能寺攻めには一応成功を収めたが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、無念にも小栗栖の露と消え去られた心中に共鳴して、当「峯の堂」はいつとはなしに語呂相通ずる「無念堂」に変わったと伝えられる。
10:30 「土用の霊泉」も標識のみだが、歴史の勉強もしながら。
土用の霊泉
鐘撞堂三叉路より京都側へ少し降りた左側にこんこんと湧き出る清水を「土用の霊泉」と呼んでいる。いかなる夏の暑い土用に、このような高所に清水が涸れないのか誠に不思議な感にうたれる。
光秀軍の本能寺攻めの際、三七草をつけて蘇らせ、それを鎧の袖の下に秘めて進んだと伝えられている。三七草は止血の効卓抜とか。
この所より都の眺めは天下の佳景といえよう。
やがてこの明智越のピーク420Mらしきを過ぎ、神明峠へ行く予定を変更して右の水尾への道をとる。
冬眠の寝息を抱き愛宕山
11:00 鉄塔の下、視界が開け、青空の中に水尾の集落を従えた愛宕山が現れた。
ふぅ〜おだやか〜やすらぐぅ〜
そこからガンガン下り、一旦舗装道路へ出る。そして北へ丹波散策の道を柚の里、水尾へ向かう。
こんなにも黄とは明るしゆずの里
11:40 暖冬のせいか、柚はまだいっぱいひしめき合っている。黄色が太陽に照りメチャ眩しい。柚子湯や鶏鍋案内の歓迎ムードが気になりながらも、清和天皇陵や米買い道への道標を見ながらも、もう浮気はしない!と決めて、一路今日の大本命、愛宕山へ。
愛宕山への道は急坂が続く。月輪寺からの道が一般的ということもあり、こちらはとても静か。なのに、お参りの道ということもあり、とても整備された道で気持ちよく、なぜか調子も良くルンルンと歩が進む。木のベンチが数ヶ所あるが、全く休み気がしない。
愛宕神社と愛宕山(抜粋)
「おのぼりやす」「おくだりやす」七月三十一日から八月一日にかけて愛宕山は大勢の参拝客でにぎわう「千日詣」である。
俗に「お伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月詣り」と言われている。
愛宕神社は昔も今も、しきみの枝を神花とし、参拝者に授与されている。月詣りの総代はこれを受けて帰り、町内各戸へ配り、神棚に供えて防火を祈る。
古代は、枝葉が繁茂する常磐木をすべて「栄え木」(さかき)といっていたが、その中でしきみは芳香があって、四季に芽を出すので「四季芽」といい、芽出度い木とされていた。
バンダナのおすまし地蔵冬ぬくし
たくさんのお地蔵さまが参道を見守っているが、今日のバンダナ?はチト暑いね〜
12:40 水尾分かれ(695M)に来ると、やはり人が多くなる。東屋の温度計は3℃だった。
登山者への注意の看板が多い。嵯峨消防団の黄色の案内もあるが、黒門で40/40。黒門を過ぎると41/40になっていた。ちょっとややこしい。
花売場(720M)は閉まっている。
花売場(抜粋)
愛宕さんの火伏の神花樒(しきみ)の売り場。毎日樒の葉を一枚ずつ、オクドさんにくべると火事にならないと言われた。
黒門(840M)の先も不規則な石段が続く。ひとかけらの雪もない。
黒門(抜粋)
京口惣門とも呼ばれた白雲寺の京都側の惣門。愛宕山は江戸時代を通じて、神宮寺の白雲寺が実権を握る神仏習合の山であった。
しかし、慶応四年(1868年)の神仏分離令によって白雲寺は破却。同門は境内各所に残る白雲寺の名残の一つである。
見下ろして京都盆地は冬うらら
だんだん明るい雰囲気になり、石灯籠が続く境内も広く開放的で、さすがに総本山は違う。
展望広場からは霞んだ京都盆地が見渡せる。団体さんがお鍋を囲んであちこち大宴会。
愛宕神社鳥居と門松
愛宕大神本殿
13:00 そのまま参道の石段を登りきって、門松と酒樽お供えの鳥居をくぐり、本殿へ。
さすがにここへ来ると、神聖な気持ちになるのは自然現象?身体心底にスゥーと新鮮な風が行き交う。身を清められる思いとはこのことかな? ん?汗が引いただけ?
愛宕神社(924M)は防火の神様だけど、会の無事故をお祈りし、お神酒をいただき、本殿横の暖かい休憩所でゆっくり休憩。老若男女いろんな参拝客に囲まれ、ボーッと休憩。
13:50 少し戻って、白髪社から杉林の中、車道のような林道を下る。チトわかりにくい。
14:00 愛宕山三等三角点(890M)は愛宕山より30Mも低い。霞んでいるけど、眺望はgood!
14:20 元の参道に戻ってガンガン下る。水尾分かれから清滝方面へ少し行くと、右にツツジ尾根への分岐。緩やかな下りから、一気の急坂の下りになっていく。
荒神峠(390M)から見晴らしよい尾根道が続き、振り返るとなだらかな愛宕山がどっしり構えていた。急坂を下るとトンネルに挟まれて保津川にかかる橋の上、JR保津峡駅が見えた。
15:30 無事JR保津峡駅。歴史あり、歩きごたえあり、いい山行だった。超満足!感謝!
時間があったので、いつものごとく京都駅〜清水寺〜四条へと足を延ばした。二条坂周辺ではすでに薄暗くなっていたが、外国人観光客でいっぱいだった。お店の人も、まだ人がいっぱい!と驚いていた。久しぶりの京都歩きも満喫!
以前、会計士の先生は休みがとれないので、日帰りで沖縄へ遊びに行くと話してくれた。関空一番の飛行機で行き、お昼前に到着して、グルメとショッピング、海岸や史跡観光して、夕方の飛行機で最終近鉄に間に合うように帰宅するという。私もこれからはそんな感じで気分転換の山行をしていくのかな〜
新年早々、小さな迷い道もあったが、すぐ修正し、メチャ充実凝縮した濃厚な一日だった。今年一年を象徴しているような、2016年はたぶんこんな一年になるような気がしている。
いろいろあっても、なにより元気であれば!
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