セ・ラ・ヴィ これが 屏風岩

大阪労山救助隊交流登山
2002.6.14.〜16.

6月14日(金)晴れ
 22:00 阪急茨木市駅集合。M本さんが見送りに来てくださっていた。K原さんがチャーターされた小型バスに乗る。(17,000円)11人しかいないのでゆったりしている。
 今回は、最初、M本さんとT関さんとの3人パーティだったが、M本さんは膝の調子が良くなくて、T関さんと2人パーティになった。屏風岩東壁のどのルートにアタックしようかと、持ち合わせた資料を見ながら決めかねていた。

6月15日(土)晴れ
 夜半、平湯に着き、早朝、上高地に到着した。
 K原さん3人パーティとM田さん2人パーティは、前穂から滝谷ドームへ、N川さん、I信さん4人パーティは奥穂へと、バラエティいろいろ。
 6:00 K原さんパーティと無線の確認だけして、Hさん達パーティと挨拶だけして、我々は先を急ぐ。5月に行った岳沢方面はまだ残雪が多いように見える。
 6:40 明神館にて朝食。見上げても、ホワイトアイボリーの小梨の花はもうない。やはり、今年も季節は早い。5月の連休の時、まだ遠慮がちだったエンレイソウは大きな葉に赤紫の花をつけている。カラマツソウの白、ベニバナイチヤクソウ、イワカガミのピンク。今回は大きなザックを持ってきたから背中は重いが、目は充分楽しんでいる。
 7:35 徳沢では、大きなサルが木の枝を揺すって新芽を摘まんでいる。あんなに大きなサルがいたら、横尾でのベースのテントは大丈夫かしら・・・と不安になる。
 8:20 横尾のいつものところへおニューの2テンを設営。おニューはやはり気分がいい。まもなくK原さん達が来られて、「横尾谷は早く渡れよ」と、アドバイスいただき、いつものように雨具のズボンだけ着替えて、出発。
 9:00 すぐ横尾谷の河原に出る。ペチャペチャと足首までの渡渉をして、「今年はラッキー」なんて思っていたら、川幅が狭くなっている分だけ、深そうな急流が待っていた。
 T関さんは思い切って渡っていかれたが、最後、ドボンと深みに入ったようだった。「もっと上流に行こう」と私に指示される。上流に行けば行くほど、難しくなるのでは・・・と思いながら、指示してもらったところを渡る。危なっかしく思われたのか、途中まで迎えにきてくれた。
 9:50 1ルンゼ押出しに登る頃、K原さんパーティが涸沢登山道から声をかけてくれた。冷たい渡渉とは正反対に、この急登に入ると汗がドォーと噴きだしてくる。
 やがて、雪渓が現れて、4本爪アイゼンをつける。今年の雪渓はやけに急勾配だなぁ・・・
 10:40 T4尾根取付きの草付き台地から見上げる今年の屏風岩は少し黒っぽい感じがして、そのせいか新緑が浮いて見える。どうしてかしら? 天気は晴れているのに、光線の角度のせいかな?
 11:00 装備をつけて、ザイルを持って、シュルンドの中の取付きへ。雪渓を10M程登って、岩の大きな洞穴の中に入ると、リングボルト3つがあった。
 ザイルをつけて、確保体制に入るが、
「ここからは無理なので、アイゼンをつけて、雪渓を登ろう」とT関さんがおっしゃる。
「ザイルは?」
「コンテで行こう」
 一瞬、「コンテなの?」と頭の中をかすめたが、クライミングシューズにアイゼンをつけて、T関さんの後を追った。
 クライミングシューズにつけたアイゼンはすぐ横を向いてしまって、こんな急な雪面では直せないので、キックステップとハンマーでゆっくり確実に登っていく。身体に巻いたザイルが解けてきたので、ボディにきちんとつけなおす。昨年飛び移ったハーケンのある岩が目に入った。
「ここで落ちたら、シュルンドの中へはまるから、そこで待ってて」とT関さん。
「はい」
 その瞬間だった。T関さんの足が滑った。私はハンマーを突き刺した。でも、身体が宙を舞った。
 ドーン・・・
 気がつくと、T関さんはシュルンドの間にはさまっていて、私は彼の上で止まっていた。
「止まった」と思った。
「大丈夫か」と尋ねられて、
「ウン」
 足が浮いている。足をバタバタさせたら、胸が痛い。岩に胸をぶつけたようだ。後方の雪渓が赤く染まっていたので、掌を見ると血が出ていた。
 幸いなことに、T関さんはスッポリ身体の幅だけのシュルンドにはまったので、大きな怪我はなかったようだ。足を雪渓に着かせて、掌にバンドエイドを貼ってもらった。
 見上げると、雪渓がかぶっていて、4〜5m落ちたんだと思った。
「下りよう」
 T関さんはハーケンを打って確保してくれて、私は安定した場所まで5m位クライムダウンした。そこには、ハーケン2つと残置シュリンゲとカラビナ2つがあったけど、新しくシュリンゲを加えて、懸垂下降。右手に力が入るかどうか不安だったので、先にT関さんに下りてもらった。胸が痛い。懸垂下降というのは、これほど、胸や腹部に力を掛けるものとは今まで思っていなかった。休憩しながら、慣れている右手を頼ってザイルいっぱいの懸垂下降をした。
 13:00 草付き台地に下りて、YMCCの仲間に無線を飛ばすが、涸沢までは回り込んでいるためか届かない。携帯電話も圏外になっている。
 胸が痛いので、肋骨が折れたのかなと思った。運動靴に履き替えて、装備を外す。草付きの下降は滑りやすいので、アイゼンをつけようとするが、胸が痛くて、T関さんにつけてもらった。装備もザイルやギア類は持ってもらった。右肘も切れていて大きなバンドエイドを貼ってもらった。
 横尾谷をまた渡渉するのはとても不安だったが、なんとか一緒に渡ってもらった。
 15:00 この河原から無線を飛ばすと、やっとN川さんと交信できたようだった。涸沢にいらっしゃるのだから、どうしようもないけれど、なぜかホッとした。
 一般道に出て、横尾の頑丈な吊り橋を渡る。
 15:30 横尾のテンバに着くと、横尾山荘の支配人が迎えてくれた。N川さんから我々の事故の連絡があり、ヘリコプターで病院へ行った方がよいとの連絡を受けているらしい。
「エッ、ヘリ・・・」
 少々驚いたけど、警察に救助要請するかどうかを聞かれて、救助要請することとした。胸が痛いので、結局はT関さんにザックの片付けをしてもらった。
 16:40 ヘリが来るまで、かなりの時間待った気がするが、上高地にヘリがいたので早かったらしい。ガスの中、常念岳の南側から大正池の上空を飛んで、豊科のグラウンドに着陸した。救急車が待っていてくれた。
 17:30 身体を固定されて豊科赤十字病院へ。ヘリでもかなりの時間がかかってしまった。ヘリを要請してよかった。
 すぐ、レントゲン検査に入った。担架で運ばれる時、ジャージのポケットから、しおれたヨブスマソウがポロッと落ちた。ビバーグの夕食の玉子スープに一片入れるつもりで、1ルンゼを登る時、ポケットにそっと忍ばせたものだった。
 20:00 検査の結果は、肋骨骨折もなく、内臓損傷もなかった。右手右肘の裂傷は、麻酔をして手は1針、肘は4針の縫合手術していただいた。右胸部打撲、右手右肘裂傷、全治2週間という診断だった。この診断を聞いてホッとしたが、ヘリ要請までして大袈裟なことをしてしまったと思った。そして、今夜だけ入院することになった。
 T関さんも、私の下になって、首や腕や足の打撲をしているが、軽傷であってホントによかった。警察の事情聴取や横尾山荘との連絡があって、たいへんだったらしい。N川さん達は、横尾のテンバに戻ってこられているらしい。みなさんに迷惑をかけてしまった。N川惇子さんやI田さんは、奥穂高岳へ登ることを楽しみにされていたことだろうに・・・

6月16日(日)晴れ
 なぜかあまり眠れなかった。もう、心配することはないのに・・・
 整形外科医の診察を受けて、レントゲンのコピーをいただいて、お昼過ぎに病院を後にした。できればみんなのところへ戻って、バスで一緒に帰りたかったけど、ちょっと横尾は遠いなぁと諦めざるをえなかった。T関さんは家まで送るからと言ってくれたが、ザックは宅配便で送ったし、足は大丈夫だし、ただの打撲なのだから、名古屋で別れて、近鉄特急で帰宅した。19:30

 今回、いろいろな方々にお世話になりました。横尾山荘の方、ヘリの関係者、救急隊員、病院関係者のみなさま、本当にありがとうございました。そして、救助隊交流山行参加者のみなさま、ご心配、ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありませんでした。

君の掌を こぼれて遥か 屏風岩
 これが6月の屏風岩なんだと痛感した。静かだけれども、残雪があり、落石もある。雪が解けてきて初めて足を踏み入れるこの時期にアタックする意味を身体そのもので感じさせられた。
 昨年、屏風岩の大きさを身体で感じてきて、もう今年は止めておこうと思っていた。でも、6月が近づいてくると、あのT4尾根取付きの草付き台地から望む屏風岩が夢に出てきてしまう。今年は母の体調もいいし、できる時にできるだけのことをしようと考えた。でも、少し突っ走りすぎたのかな?
 あの時、雪渓をコンテで登る時、「エッ」と一瞬思ったけど、「スタカットにしよう」と口には出なかった。後で、昨年はT上さんが先に登って、確保支点を作って私が登ったことを話しても、もう遅い。「自分の思っていることははっきり言うんやで」って、岳沢へ行った時アドバイスされていたのに・・・
 事故は起こってしまった。いいえ、事故を起こしてしまった。でもその後、シュルンドからの脱出、雪渓の下り、そして渡渉と、冷静に落ち着いて行動できた。今回屏風岩へアタックしたのは我々1パーティだけで、無線も通じない中で、気丈に行動できたことは、YMCCの日頃のセルフレスキュー・スピリットやトレーニングが生かされたように思う。
 ザックの雨蓋に入れておいた無線機が壊れたことも、長袖シャツが破れてしまったことも、滑落時の衝動を吸収してくれたのかもしれない。が、二人とも軽傷だったのは本当に幸運そのものだった。T関さんにはたいへんお世話いただいた。もし逆の立場だったら私にこれだけのことが果たしてできただろうかと思う。
 「中級卒業生なのだから・・・」昨年T上さんによく言われた言葉だった。今回の教訓を決して忘れずに、もっと胸を張って自信を持って、また明日に向かって歩いていかなければと思う。

(2002.6.28.記)

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