天高く 夢広がりて 船上山

第7回視覚障害者全国交流登山西日本集会
2001.10.26.〜28.

10月26日(金)晴れ
 8:00 JR吹田駅に先発隊メンバーが集合。今回の交流登山会計を任された私は、本部車に乗り、早速事前打ち合わせに入る。
 中国自動車道から米子道に入ると、右に大きな大山。大山PA下り側で昼食。
 赤碕町の見覚えのあるスーパーで、交流会用の食材を買う。ケチケチ予算なので、みんなのチェックが忙しい。
 14:00 予定通り、船上山少年自然の家に到着。早速、参加団体毎に記念品、赤崎町からいただいた大きな新興梨二つ、名札、実施要綱などを並べる。会計の私は、電卓片手に数字とにらめっこ。
 兵庫視障協や京都山の子会のメンバーと夕食を済ませ、後は各会の到着を待つばかり・・・ たぶん、今夜は徹夜だろうと覚悟しているから、少しの間だけテント場に行って、N川さん達の中で一息入れさせてもらう。
 22:00 「もう、高知が来たみたいよ」と聞いて、受付会計を担当している私は、あわてて自然の家に帰った。【失敗その1】
 その後、順次到着される。かざぐるまの後発隊バスは少し遅れたが、お願いしていた会費も滞りなく集めていただいて、どうもありがとう。
 2:00 富山三ツ星山の会だけを残して、みんな無事到着された。I藤さんとO原さんから「明日、勝田ヶ山へ登らなければならないのだから、休んでね」とお心遣いいただいて、部屋に入る。(結局、富山は翌朝到着)

10月27日(土)晴れのち曇り
 6:00 慌しく各自の朝食を済ませて、代表者会議に顔を出す。N川さんの登山における9つの注意事項は、ごく当然の事柄だったが、初心者にわかりやすく、即実行できるような噛み砕いた説明だった。会計のことは一時I藤さんに預けて、出発の準備をする。
 7:30 勝田ヶ山3パーティの内、私のパーティだけが、揃わない。徳山の人は、川床パーティに入っていた。兵庫の3名はもう既に3人で登っていったという。無線通信隊の人に連絡をとっていただき、引き返してもらう。
 8:05 やっと出発。私のパーティは、その兵庫3名とB銅さん、新潟あいゆーのY村さんとの6名で、足が揃っていて、安心していられる。トップを歩くB銅さんはさすがに落ち着いていらっしゃるし、Y村さんは12月に視障のM浦さんの伴走としてホノルルマラソンを走るほどの方で、兵庫3名といろいろお話なさって、雰囲気を和やかにしていただいた。
 茶園原の点字付案内板は素晴らしい。雪に耐えられるよう頑丈に作られている。船上山への道もすごく整備されていて、自然の石を自然のごとく階段状に積み重ねてあり、粘土質の滑りやすい道は消え去っていた。赤碕町のご苦労に心の中で感謝する。
 9:05 順調に船上山頂上(616M)に到着。船上山の点字付案内板も同様。船上山がこれからバリアフリーの山として、視障者をたくさん受け入れてくれることに思いを馳せる。
 9:40 鬱蒼とした船上神社を過ぎ、紅葉真っ盛りの勝田ヶ山への道を行く。
 サポートが一巡したので、兵庫のK多さんは私に促す。
「リーダーがサポートするのはおかしい」とY村さんはおっしゃるが、帰りはきのこを探したいので、M岡さんのサポートを申し出る。
 Y村さんは心配なのか、すぐ後ろを歩いてくださって、アドバイスくださる。
「大丈夫だって・・・ 先日の青葉山では、O島さんに上りは100点、下りは80点をもらったのだから・・・」
 11:00 例の広場でY川パーティに出会う。CLのM本栄子さんに無線を飛ばして、確認する。頂上は時間差を設けなければならなかったので、遅れて出発してちょうどよかった。ここからは、Y村さんがサポート代わってくださる。
 11:45 無事、勝田ヶ山頂上(1210M)。O野さんも待っていてくださって、少し曇り空の大山バックに記念撮影。勝田ヶ山頂上は標識がない。まぁ、いいんじゃない・・・
 11:55 なんとなく危なっかしいので、すぐ下山。急な下りは、男性陣に注意深くサポートしていただいた。
 12:05 例の広場で昼食をとり、お国言葉のやりとりで花を咲かす。
 12:25 紅葉と黄葉のトンネルをくぐるように下山。見上げれば、ブナに抱っこしているツキヨタケは大きくてりっぱ。でも、足元のきのこは少ない。ムキタケが少々。
 13:00 天王屋敷跡分岐。M本さん達がコーヒーを作って待っていてくださった。あったかくて、喉に染み入る。
 13:25 さぁ、秘密の倒木を目指そう。ところが、倒木は昨年同様あるのだけど、きのこは全くない。そうね、笹をこれだけ刈られていたら、きのこもなくなっているよね。ザンネン・・・
 14:10 船上神社で記念撮影。
 14:30 船上山頂上では、N川さんやK原さんが待っていてくださった。「あー、おつかれさまぁ〜」
 15:30 無事下山。乾杯して、歓談する。出発の時には、怪しかった兵庫のメンバーとも打ち解け、また懐かしい六つ星のN沢さんやT我井さん達とも話しが弾む。そんなに長い時間を費やしたわけでもないのに、本部に帰るのが遅くなって、また・・・ 【失敗その2】
 最終、川床パーティが帰ってきて、全ての登山が無事終了する。本当にみなさま、お疲れさまでした。そして、どうもありがとうございました。
 下準備はちゃんとできていたはずなのに、次から次へと湧き出してくる。自然の家の支払いは、明日の朝は早いので今日のうちに精算していただいた。地元のT本義則さんには細かい雑用を引き受けていただき、とても助かった。本部総まとめのI藤さんはイライラ気味。ジャスミン茶で魔法の杖を振る。ボランティアによる夕食お弁当も本部席でいただいて、いつのまにか"EYE・愛 船上山"記念コンサートが始まり、お風呂の中で荒神太鼓とフリーダムの歌を聞く。
 21:30 やっと、なんとかみんな交流会に入り、私達も羽を休められることになった。少しだけ食堂に顔を出し、逃げるようにテント場へ。ギリギリ門限午後10時10分前に自然の家を出た。
 テント場で、きのこ汁をいただく。すごく大きなコンロ付鍋は今回のために、ボランティアの人が購入してくださったもの。川床パーティのK島さんは一番前を行く案内役の谷上弘治さんが全部採ってしまって、ゼンゼン・・・っておっしゃる。でも、たくさん入っているよ。
 T本さん主催の石井光造氏を囲む会に入れていただき、少しセンチメンタルになったりもしたけど、ゆったりできるところがあって、心が休まっていく。いつもの雰囲気の中で、いつものように夜が更けていった。

10月28日(日)雨のち曇り
 6:00 深夜、突風が吹いてザーッと大雨が降る。私はモスラテントで寝ていたので大丈夫だったけど、YMCCのメンバーはいつものことながら、外でお休みだったので眠れたのかな? サッサと片付けて、素早く自然の家に戻る。
 7:30 サンドイッチの朝食を済ませて、代表者会議に出席される方々は、ナスパルの時間差入浴もあって出発される。W辺さんと私は、各部屋の点検や片付けで最終出発となる。かざぐるまの女性陣は、率先して各部屋の布団のたたみ方やお掃除などをチェックしてくれて、「主管としてのかざぐるまよ」という誇りを実感してすごく頼もしく思った。
 9:00 どしゃぶりの雨が降っている。「よかったね。昨日じゃなくて・・・」昨日だったら、勝田ヶ山は中止だろう。川床コースも危ぶまれただろう。ラッキーというより、これだけの大プロジェクトに雨を降らすことはできなったのだろう・・・と思っておこう。
 代表者会議では、次期開催のことやアピールが話し合われていたが、会計についてはキャンセル料の提示云々に注意を受けた。私が会計を引き受けたのは、今年7月だったとはいえ、文書での連絡不足は反省している。
 11:00 中山町ディサービスセンターでのお別れ会と昼食。T本実行委員長より大会アピール、六つ星山の会より次期開催案内、そして各会挨拶。続いて、隠し芸など行なわれたようだが、私はあちこちの支払いに奔走していて、あまり覚えていない。でも救助隊YMCCの時は、ちゃっかり一緒に舞台に立って、"よばれよの歌"と"ロック数え歌"を歌った。"よばれよの歌"はとてもみんなにインパクトが強かったようで、頭の中から離れないというメールがあった。
 遠方からの方々は早々帰路につかれる。東京から新幹線を利用して参加してくださった六つ星、久しぶりにお会いしたN沢さんは気遣いのN沢さんに変わっていたように感じて、痩せた小さい肩に会長という重責を背負っているのが痛々しく思えてならなかった。
 つい先日、賛助会員になった岡山こまくさハイキングクラブの方々ともお話したかったけれど、そんな時間も心の余裕もなかった。賛助会員になった経緯は単純なもので、こまくさの山行にはたぶん参加することはないだろうが、ただただ、創立当時のご苦労に私のような者でも何かのお役に立てれば・・・と思う。
 帰路は高速代レシートをいただく関係で、バスに乗る。YMCCの中に入ると、もちモチ"よばれよの歌"そのものになってしまう。後日、W辺さんが「YMCCの人の感想をメモしたの」とメールくれたけど、眠っていたのか全く覚えていない。S々木君にも「かざぐるまの月例のこと話したよ」と言われたけど、それも覚えていない。最近、N川さんに感化されたのか、記憶にないことが多い。なんだか、深刻に悩んでしまう。
 20:30 本当にいろんなことがあったけど、おかげさまで全てALLなにもかもを無事に終え、新大阪に帰ってきたのでありました。

  またひとつ 歴史刻んで かざぐるま
 今回の交流登山は、視覚障害者山の会だけでなく、地元赤碕町、鳥取県、周辺自治体、ボランティア団体、高校生、盲学校生の参加もあり、心強く、素晴らしいイベントとなった。勿論、徳本さんというエネルギッシュなリーダーがいらっしゃるからこそなのだが、かざぐるまの14年という歴史、そして特定非営利活動法人であるかざぐるまに対する信頼が各分野のご協力を賜ることとなったのだろう。
 そして、鳥取、島根山岳会をはじめ、なによりも救助隊YMCCの協力は心強かった。「そこにいてくれるだけでいいの」と思いながら安心感に浸っていた。
 私自身、日頃かざぐるまには何ひとつ貢献せず、YMCCばかりに行っているのに、こんな素晴らしいイベントのスタッフの一役を担えたことをとても光栄に思っている。なによりもメンバーに恵まれていた。ある日、ポッと入ってきた私を影になり日向になりフォローしてくださり、的確な指示、順序だった納得いく説明をくださるI藤のぶさん、細かなめんどうなことをいつもコツコツしてらっしゃるO原尚子さん、マイペースで物怖じしないお酒の大好きなW辺文子さん、あわてんぼう会計を落ち着いてフォローしてくださるS本美津子さん、そして、登山分野ではN川さんはじめ、M本さんやS原さんもいてくださって、個性的過ぎるほどだけど心温かい仲間に恵まれた。
 そしてそして、会計の私になくてはならなかったのが、このパソコンだった。エクセルもメールも最後の最後まで、鳥取県への収支報告書期限ギリギリ提出まで威力を発揮してくれた。
 あれから、一ヶ月が過ぎて思い返すことは、T本さんの何事にもめげずに突き進んでいくパワーは以前同様素晴らしかったこと。そして、彼特有の盛りだくさんの内容にみんなが大きな気持ちで一丸と立ち向かえたこと。特に行政からご支援を受けることは返っていろいろたいへんだった。でも、それはいわゆる皆さんの税金を頂戴することであるからこそ、神経ピリピリになるのは当然のことであり、お互い善意に基づいてのことだから、解りあえた時は暖かいものが流れた。
 そして、NPO法人ハイキングクラブかざぐるまは、無限大の可能性を秘めて、すでにそういう道を歩き始めている。自分達のお小遣いで好きな山に楽しくワイワイ行くだけではなくなってきた。それでいいじゃないかと思った時期もあったが、行政や現地ボランティアとの合同会議などを経て、みんなの湧き上がってくる情熱を感じ、心動かされている自分がいた。もっとも最初からベースにあるものは、障害があるないにかかわらず、"みんなで支えあう社会"なのだから・・・
 最後に、久しぶりのかざぐるまはとても頼もしくなっていた。サポート技術も運営面でも、これからは全国に産声を上げる視障者山の会に対して指導的立場になってゆくだろう。N川さん同様私も、ノコノコ出かけて行って、言いたいこと言うのは慎むべきかなと思う。

(2001.12.3.記)

home